祖母がつないだ縁、八年目の「居場所」
みゆき港湾に入ったのは、十九か二十のころだった。それまではアルバイトをしたり実家近くで牡蠣の手伝いをしたりしていた。
「将来はこれをやりたい」という明確な夢があったわけじゃない。
きっかけは、祖母だった。
当時、みゆき港湾の社長家族が営む理容店に祖母が通っていて、「誰か働く人はおらんか」と相談されたらしい。
そこで祖母が「うちの孫がおるよ」と答えた。祖母のそんな一言が、この仕事との縁になった。
海の仕事を知っていたわけでも、船に乗った経験があったわけでもない。
祖母がつないでくれた縁でみゆき港湾へ入社し、そのまま八年が経った。
そして昨年、みゆき港湾は久栄建設と一つになり、現在は久栄建設の一員としてみゆき号に乗っている。
気づけばみゆき号の中では、山岡船長に次ぐ古株だ。
「なぜ八年も続いたのか」と聞かれても、格好いい答えはすぐには出てこない。
やりがいや誇りもあるけれど、一番大きいのは間違いなく「居心地の良さ」だ。
船の仕事は職場の人間関係から簡単には逃げられない。
朝から夕方まで一緒に働き、現場によっては同じ船で飯を食い、酒を飲み、眠る。
仕事中だけ我慢すればいい関係じゃないからこそ、「誰と乗るか」がすべてになる。
今のみゆき号に乗っている三人は歳も近く気心が知れている。
現場では安全のために言葉が鋭くなる瞬間もあるけれど、終われば一切引きずらない。
その場で言って、終わり。あとからネチネチ言う人間は一人もいない。
八年一緒にいる山岡船長とは、「あれ取って」と言われれば指示された道具が瞬時に分かるくらいの空気感がある。
この気負わない距離感があるからこそ、ここはボクにとってかけがえのない「居場所」になった。
「止めとるよ」――操作席に座って知った、波の真実
そんな八年目のボクに新しい役割が加わった。
クレーンオペレーターだ。
これまで八年間、船の上から何度もクレーンを見上げ、合図を出す側に立ってきた。
その経験を重ねたうえで、ついに自分が操作席へと座ることになったのだ。
外で見ているときには分からなかった景色が、レバーを握ると一気に広がった。
クレーンそのものを止めても吊り荷はすぐには止まらない。
海が揺れているからだ。
陸上の作業員から見れば荷物はゆらゆら動いているから、「止めろ!」と強い合図が飛んでくる。
「こっちは止めとるよ」・・・心の中でそう叫びたくなる瞬間もある。
海の上のクレーンは、機械だけを動かせばいい仕事じゃない。
波を読み、風を読み、船の揺れを全身で受け止めながら吊り荷の動きを予測する。
そして、合図を出す仲間と呼吸を合わせる。止めることすら、容易じゃないのだ。
合図を出す側の難しさも操作する側の葛藤も、両方知っているからこそ見えるものがある。
クレーンは、この仕事の「花形」だ。
巨大な石も重い鉄板も、これがなければ仕事が進まない。
若い乗組員たちが一度は憧れるその特等席に、ボクは今、座っている。
揺れる船の夜と、つないでいく未来
今の現場は平日は船で過ごし、金曜の夜に家へ帰る。
家には妻と、六歳と五歳になる二人の子どもが待っている。
平日の大半を不在にする分、週末はできる限り子どもたちを遊びに連れていく。
自分の趣味である車をいじったりパチンコに行ったりする時間も大切にしつつ、父親としての時間を噛み締めている。
船の上での夜は長い。仲間とゲームをしたり、山岡船長の晩酌につきあって焼酎のお茶割りを傾けたりする。
ずらりと並んだ空の焼酎ボトルは、ボクたちがこの船で重ねてきた時間の証拠だ。
「合図を出したとき、あの波はヤバかった」
「今日の現場はうまくいったな」
同じ船で戦っている仲間だからこそ分かち合える会話がある。
気の合う仲間と過ごす夜はそれほど悪くない。
十年後、自分が船長になっているのか、オペレーターを極めているのかは分からない。
今はただ、どんなに波が揺れても狙った場所へ狂いなく荷を据えられるオペレーターになりたい。
周りから「中西になら安心して合図を出せる」と信頼される存在になりたい。
会社を辞めようと思ったことは、一度もない。
居心地のいい仲間がいて、確かな居場所がある。
そして今、八年目にして最高の新しい挑戦が始まった。
揺れる船の上で、止まらない吊り荷と向き合いながら、ボクは今日もこの手で新しい未来を動かしていく。